こんにちは!necco(@necco_tl)です!
2月15日が最終日の文化庁メディア芸術祭に行ってきました。今回初めて行ったのと、イベントの最終日だった事もあって、シネマアート六本木などには行かず、国立新美術館の展示のみを観てきました。
場所は東京メトロ千代田線乃木坂駅。駅直結の出入り口があるので便利です。
デザインの事はよく考えるのですが、アートの事はほとんど考えた事がなくて、なんだかモヤモヤした気分で展示物を観ていました。これは一体何なんだろう?って。
アートへの抵抗感
私がウェブデザインを勉強し始めた10年くらい前は、デザインとアートがごちゃまぜになって語られる事が多かった時代でした。
今日ではありえないような、フルFLASHのおよそ使いやすいとは言えないようなウェブデザインが、インタラクティブだなんだと訳の分からない横文字で評価されて、優れているといった風潮があって、見やすい・使いやすいウェブデザインは馬鹿にされていたとすら思っています。
そういった風潮やとにかく横文字を使うエライ先生がとても嫌いで、ユーザーの事なんかほとんど考えていないフルFLASHのサイトも大嫌いでした。
「ウェブをデザインする事とアートは違うんだぞ」ということを、デザインをより理解しようとする事で明確にしようと考えていましたから、アートの存在する意味といった事は今まで考えてきませんでした。
これがアートに対するモヤモヤした感じの正体なのかなと。
何のためにアートがあるのか?
デザインは、製品やサービスをユーザーが使いやすくするためとか、かっこいい・可愛いと言った感情を持ってもらうためにあって、使う人のためにあるのもの。
一方でアートは、無くても生活が困るようなものではありませんし、芸術家がいなくても問題なく暮らせそうな気がします。
その辺の事を一緒に観に行った人とコーヒーを飲みながら話し合ってみました。
アートは人間が人間らしくあるためのもの
デザインが誰かを感動させるためにあるものだとするならば、自分以外の誰かの感情を知る必要があります。
いろいろと話し合った結果、アートは他人の考えや感情に気づき、受け入れる柔軟な心を作るために必要なのではないのかという結論に至りました。
人間が人間らしくあるためにアートは欠かせないものなのではないかと。
もしアートが世の中に無かったとしたら、人間は自分の考えや感情のみに捉われて柔軟さを失い、世界が無機質なものに変わってしまったのではないのでしょうか。
例えばコーヒー。最近ブルーボトルコーヒーが話題になっていますが、コーヒーには様々な種類があって味わいも様々です。
極端かもしれませんが、もしアートが世の中に無かったとしたら、コーヒーの成分を化学的に合成した飲み物をコーヒーとして飲んでいたかもしれません。
もし世界にたった一人きりだったとしたら、孤独は感じないはずです。同じように、コーヒーが単に化学的な成分を満たすだけの飲み物だったしても無機質なものだとは感じないはずです。
実はこれと同じような事が、アートの無い世界が、いま私の心にも起きているのではないかと。
アートで気づき力と柔軟性を高める
知らず知らずのうちに自分の考えや価値観に捉われてしまって、他の人の考えを「そういう考え方の人もいるよね」と受け止めずスルーしたり、跳ね返してしまっていなかったかと。
年齢を重ねていくと、様々な経験をするかわりに他の人の考えや価値観を受け入れるスキマが無くなってきます。
心にスキマが無くなって柔軟性を失うと、新しい視点に気づくチカラも失われていきます。
頭でっかちの堅物なんて呼ばれないように、たまにアートを観て気づき力と心の柔軟性を高めないと!
文化庁メディア芸術祭で気になったもの
なんだかアートの話に偏ってしまいましたが、メディア芸術祭ではエンターテインメント部門やアニメーション部門など、いろいろな作品が展示されていました。
特に気になったのがのらもじ発見プロジェクト。
古い街並みの商店の看板などの、個性的で味わいのある文字をフォント化していくというプロジェクトだそうです。
フォントはすべてダウンロードが可能で、お金を払ってダウンロードするかSNSでシェアしてダウンロードするかを選べます。
お金を払ってダウンロードした場合、その代金の一部は文字の提供元である商店に支払われる仕組みです。
こういった味わいのある文字を見かけてはいるんでしょうが、それをフォント化しようとは考えませんでした。
こういう自分とは異なる着眼点を見つける事は、いつまでも大切にしていきたいなと、そんな事を思った日曜日でした。
ではまた!
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